街の牧師 祈りといのち

購入済み

シリーズ

全1冊

作品情報

「並外れた悩む力を持っている牧師だからこそ、 人の悩みを受け止められるのかも。 」──帯文・末井昭ネットで誰もが石を投げあい、誰もが傷つけあう時代に、牧師の祈りはいのちとつながっている。かつて精神を病み、閉鎖病棟での生活も経験した牧師。何度もキリストにつまずき、何度もキリストと繋がってきた牧師が営む街のちいさな教会は、社会の周辺で生きる困難な事情を抱えた人たちとの出遭いの場でもある。宿を求めて夜の街で男をラブホにさそう少女、大人たちから裏切られ続け人を信用できなくなった青年、完治が難しい疾病で苦しむ患者、「いまから死にます」と深夜に電話をかけてくる人……。本気で救いを必要とする人びとと対話を重ねてきた牧師が語る、人と神との出遭いなおしの物語。「本書のなかで、わたしは自分が遭遇し、巻き込まれてしまったイエス・キリストの話を語っていくだろう。それはキリスト教についての神学的な叙述にはならない。なぜなら、わたしがこれから話すことは、そのほとんどすべてが、目の前に現れた他人たちとの出遭いについてだからである。わたしにとって神について語ることはすなわち、目の前の人と出遭い、そこで生じた共感や対立、相互理解の深まりや訣別、その喜びや怒り、悲しみなどの、生々しい出来事を語ることだからである。」(まえがきより)【目次】まえがき──自由意志なのか。奴隷意志なのか。■第1章 割り切れぬものを噛み締めてアイドルとキリストねえ、ラブホいかへん?放っておいてくれませんか。あなたには分からないわたしは償ったのか?伴走し続けることの難しさ、大切さ聖書のなかの「かわいそうランキング」赦しを語ることができない■第2章 背負えることと背負えないこと結婚式の祝辞「独りで抱え込まないで」の背理こちらも無傷では済まない誰がその責任を負えるだろうか仏教的文脈のキリスト教自分を責めてしまうことからの回復わたしは加害者であり、被害者である■第3章 いのり、いのち彼女にはまぶしすぎた十二使徒たちの確執後にいる者が先になり、先にいる者が後になる謝罪から新たな関係の模索へ悔いのない人生はおくれるか誰もが石を投げる時代でキリスト教にはカルトになる要素があるのか?あなたは憐れみの目を向けてはならないあとがき

作品をシェアする

同じ作者の本

晶文社のおすすめ本

エッセイ・随筆・紀行のおすすめ本

チェックリストに追加しました
クリップボードにURLをコピーしました
カートに追加しました
お気に入りに登録しました
作者をフォローしました

ポイント詳細

  • 通常ポイント

    pt

    ご購入額に応じて、dポイントを還元いたします。還元するdポイント数はご購入代金100円(税抜)につき1ポイントです。

【dカードならさらにおトク!】

さらにdカードをご利用の場合、ご購入代金100円(税込)につき2ポイントを加算し還元いたします。

  • dポイントによるお支払いはポイント進呈の対象外となります。
  • 開催中のキャンペーンにより、還元されるdポイント数は変動いたします。
dカードのお申込みはこちら

お手数ですが、ログイン後に再度登録をお試しください